『ゴンドラ』DVD・Blu-ray発売記念

伊藤智生監督インタビュー

取材・構成=佐野亨(映画評論家)twitter-bird-white-on-blue-150x150.png



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 秋雨の午後、東京・六本木の一隅にある雑居ビルを訪ねた。アダルトビデオメーカー〈ドグマ〉のオフィス兼スタジオが置かれたビルだ。
 エレベーターに乗り込み、「総帥の部屋」と書かれた階で降りてドアをノックすると、「どうぞ」とビデオで聞き覚えのある低い声が聞こえた。ドアを開けると、まず目に飛び込んできたのはチャップリンの『キッド』のポスター。浮浪者のチャップリンと寂しげな目をした少年が並らんで座っている。その少年の姿に、映画『ゴンドラ』の主人公“かがり”の姿がオーヴァーラップした。
 大量の資料とVHSテープの山に埋もれるようにして座っていた伊藤智生監督が「ここはちらかっているので、上で話しましょう」と立ち上がる。案内されるままひとつ上の階へのぼると、そこは四方を真っ黒に覆われたスタジオだった。「ここの壁や床にはいろんな人の体液と一緒に、僕の人生がしみ込んでいるんです」と伊藤監督。1979年、のちに『ゴンドラ』のプロデューサーを務める貞末麻哉子(棗耶子名義で伊藤とともに原案・脚本も担当)とフリースペース〈クリエイティブ・スペースOM(オム)〉を設立した伊藤監督は、85年〈OMプロダクション〉をこの場所に設け、以後〈ドグマ〉の作品製作も含めて、ここを活動の拠点としてきた。
 86年に完成後、紆余曲折を経て88年にテアトル新宿にて劇場公開された映画『ゴンドラ』は、その後VHSソフトはリリースされたものの、長らく再上映の機会もなく、当時の観客に「忘れがたき体験」の記憶を植えつけたまま、幻の作品と化していた。それが2017年に突如リバイバル公開が実現、複数の映画館でロングランヒットを記録し、30年ぶりに大きな注目を集めることとなった。
 まずはこの間の時系列的な流れ、そして伊藤監督がどのような気持ちでその時間を過ごしてきたのか――そこから話を訊いた。


「『ゴンドラ』が終わったあと、僕は莫大な借金をかかえてしまいました。それで行きがかり上、始めたのがAVの仕事だったんです。当初は数年頑張ったら、自分にとっての本道である映画の世界に戻ってくるつもりでした。ところが、いざ始めてみると、AVを撮ることの面白さにとらわれてしまったんですね。というのも、AVに出演する女の子たちは、その多くがほかに行き場のない子たちだったんです。単純にお金が儲かればいいと考えている女の子ばかりなのかと思ったら、全然そうじゃない。お金がある子も、貧しい子も、とにかく生きている実感が持てず、結果として流れ着いたのがAVだった。そうか、この子たちは大人になった“かがり”なんだ、と思ったら、この仕事をやめられなくなったんですね。いや、放っておけなくなったと言ったほうがいいかもしれません。毎作品、その子たちの心のありようを真剣に撮ろうと思うと、自分自身もどんどん表現の深みにはまり込んでいく。いまはAV業界も大きな企業体になって事情が変わりましたが、当時は良くも悪くもどんぶり勘定だったから、『この子で撮ってくれ』と頼まれたら、具体的な内容は全部こちらにおまかせだったんです。プロデューサーはパッケージ商売だから、外身であるパッセージさえ見栄えのいいものにしてくれれば、中身にはいっさい口出ししない。しかも当時はいわゆるドラマを撮れる人が少なかったので、僕のように映画出身でドラマが撮れる人間は重宝がられたんです。2日で撮る予定の作品に4日も5日も費やして、散水車やクレーンをバンバン使い、演出的にもあらゆる実験的なことをやりました。ところが調子にのって好き放題やっていたら、いつのまにか1200万円くらい借金をこさえてしまった。『ゴンドラ』の借金を返すつもりで始めたAVで、さらに金額が膨れ上がってしまったんです。ほんとにバカみたいですよね。人のメーカーのAVを、自分で借金しながら撮るなんて。でも面白くなっちゃったんだからしようがない」

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スタジオの上からは緊縛用フックがただならぬ光を放つ。



 たしかに草創期のアダルトビデオには、現在のように産業化され、ある種ルーティン化した製作体制のなかでは生まれえない、「切実な主体性」に裏打ちされた作品が少なくなかったように思う。伊藤監督は当時を振り返り、「いま思うと、AVを撮りながら、実は“俺にとってのATG映画”を撮っていたような感覚だったんだと思います」と笑ってみせた。
 なるほど、『ゴンドラ』に息づいているのも、かつてのATG映画を髣髴とさせる「切実な主体性」にほかならない。


「AVの世界でひととおりのことはやり尽くした感があり、自分の原点を見つめなおす意味でも、映画の2本目を撮らなければならない、とずっと考えつづけてはいたんです。18年前にドグマを立ち上げたときも、今度こそ金を儲けて、AVを次世代の監督にまかせることができるようになったら、俺は映画をつくるぞ、という思いがあった。実際、最初の2~3年はめちゃめちゃ儲かって、こりゃ計画通りいくぞ、とほくそ笑んでいましたが、そんな矢先、AV業界全体に翳りが見え始めたんです。ネットの普及や流通事情の変化など、さまざまな要因が重なって売上がガクッと落ちた。そうすると、作り手も本気でなにかをやろうというやつが少なくなって、粗製乱造に走ってしまう。結局、作り手がわるいんですよ。そうしたなかで下の世代を育てることもままならなくなる。
 自分も年を取って、齢60が見えてきた。うちの父親は61歳のときに肺ガンで死んだんですよ。ああ、親父が死んだ年齢に俺も近づいているのか、と思ったら、映画のことがすごく気になり始めた。そんなとき、『ゴンドラ』のネガを預けていたイマジカから連絡が入り、『そろそろネガの劣化が始まる頃なので、いまのうちにデジタルリマスターをつくりませんか?』と言われたんです。還暦祝いのつもりで金を使おう、と決めて、イマジカのエンジニアの人とかなり本気で取り組み、デジタルリマスターが完成した。で、実際にできてみると、ミニシアターのレイトショーでもかまわないから、一度くらいは上映したい、という欲が出てくる。そこでトークショーやなんかができれば、自分が2本目の映画をつくりたいと考えていることもあらためて世間に言えるしね。それで最初はユーロスペースの上のレンタルフロア(ユーロライブ)を借りて2回だけ上映するつもりでいたら、ユーロスペースの担当の方が「是非正式に上映させてほしい」と声をかけてくれたんです。しかもそのとき上映を提案してくれたのは、ある一人の女性スタッフの方で、タルコフスキーやビクトル・エリセが大好きだという彼女が、その路線でなんとしても『ゴンドラ』をかけたい、と掛け合ってくれたらしい。実際、公開当時にフライヤーやパンフレットのデザインをしてくれた友成修さんはタルコフスキー作品のフライヤーのデザインなどを担当されていた方で、僕もタルコフスキーの映画が好きだったから、彼にデザインをお願いした。また、ユーロスペースのあとにはポレポレ東中野も声をかけてくれましたが、支配人の大槻(貴宏)さんは「いま『ゴンドラ』と言っても、ぶっちゃけそれだけではお客さんは入らない。せっかくだから伊藤監督があのTOHJIRO監督と同一人物であるということを明かしましょう」と提案してくれた。「やるからにはおまえが吼えろ!」と叱咤されたような気がして、有難かったですね。そうして蓋を開けたら、連日びっくりするくらいお客さんが来てくれたんです」


観客のなかには、初公開時に観て「忘れがたき体験」となった人もいれば、今回初めて観る若者もいた。いったいなにが観客の心を動かしたのだろうか――。


「僕はニコニコ動画で人気のある生主の加藤純一くんと仲がいいのですが、彼が配信している“ニコ生”の番組にたびたび呼んでもらい、リバイバル公開が決まってからは『ゴンドラ』の特別番組もやらせてもらいました。加藤くんの番組の視聴者のなかには引きこもりやニートの若者もたくさんいて、そういう人たちが映画館にも足を運んでくれたんです」


 伊藤監督の話を聞きながら、僕は自分の少年時代を思い出していた。そういえば中学生の頃、僕はとくに原因があったわけではないのだが、学校へ行くことができない、いわゆる不登校になった時期があった(所属していた演劇部の活動は好きだったので、放課後、こっそり部室にだけは顔を出していた)。いま思えば、学校という共同体のなかで、集団化された生活を送ることが苦痛でしかたなかったのだろう。朝、家を出ても学校へは行かず、横浜のまちをひとり彷徨い歩いていた。昏い海を眺めたり、高台からまちを見下ろしたり……。それにも疲れると、人の少ない日中の映画館へ逃げ込んだ。映画館の近くには中古ビデオ店があり、そこで過去の映画作品にもランダムにめぐり合った。『ゴンドラ』の存在を知ったのも、そんなときだった。

「そうやって居場所を見つけられず彷徨っていた人たちがこの映画を自分に重ね合わせたんだと思います。 川喜多かしこさん(註=川喜多記念映画文化財団の創設者で、日本における映画の収集保存活動の先駆者)の助言を受けて、渋谷の東邦生命ホールで2日間、先行ロードショーをやったときには、2300人ほどの観客が来てくれて、そのうち1500人くらいがアンケートを書いてくれました。印象的だったのは、多くの人が映画の感想ではなく自分のことを綴ったうえで、『私もかがりちゃんです』『私にも帰る家がありませんでした』と書いていたことです。一般公開が決まって劇場に足を運んだときも、ほとんどのお客さんがエンドロールになっても席を立たず、終わったあとに大きな拍手が沸き起こった。あれにはびっくりしましたね。 リバイバル上映のときには、その反響がSNSでの書き込みに変わっていた。やはり映画の内容に自分を重ね合わせた人たちが、ものすごく熱い感想を寄せてくれたんです。その声がまた僕にとって新たな活動のパワーとなりました」

 僕もリバイバル上映時に初めて『ゴンドラ』をスクリーンで体感したが、紛れもない80年代の映画でありながら、現在にも通じる普遍的強度をもった映画であることをまざまざと確認し、感銘を受けた。実際、まったく事前情報を持たずに映画を観た知人のなかには、新作映画と勘違いした者がいたほどである。 『ゴンドラ』が、そのように時代を超えて観客の同調性を呼び起こしたのは、この映画が“ほんものの孤独”を映し出していたからだろう。それは主人公の少女“かがり”の孤独であり、上村佳子という実在の少女の孤独でもあった。

「“かがり”は子どもだけれど、非常に醒めた目をしていて、ある意味、大人以上にこの社会の本質を見抜いている。映画のなかで彼女が『大人になってよかったと思ってる? むなしくない?』と問いかけますが、それは子どもから見た大人の像であると同時に、少なからぬ大人が心のなかで日々つぶやいている言葉でもある。 『なんで?』とか『べつに』という“かがり”の口癖は、当時12歳だった上村佳子がよく口にしていたフレーズだったんです。それをベースに映画のセリフを書いていった。シナリオ執筆の段階で、ロケハンを兼ねて、上村佳子とプロデューサーの貞末と3人で旅をしたんです。そのときは最終的にロケ地となった青森の下北半島には行かなかったのですが。旅に出れば、“かがり”も気持ちがほぐれて、楽しくコミュニケーションがとれるようになるかと思っていましたが、ずっとあんなふうに淀んだ調子なんです。こちらがよかれと思ってやったこともなにも伝わらない。終始つまらなそうで。俺も頭にきて、こんなことなら連れてこなきゃよかったと思いましたが、帰る前日に白い砂浜が広がる海岸へ行ったんですね。そうしたら“かがり”が突然、『おっちゃん、網買ってくれない?』と言ってきた。近所の店で網とバケツを買ってやったら、彼女は夢中で小魚をすくってバケツに入れているんです。もう、暗くなるまでずっとやりつづけて。その姿を見たときに、僕は『この映画のラストができた』と思いました。要するに、“かがり”のなかにはちゃんと子どもとしての彼女がいるんですよ。だけど、苦しい環境のなかで生きていると、いろんなことを諦めたり、心の奥に閉じ込めたりして、大人の顔をしてなくちゃならない。無理に結末を用意するのではなく、そういういまの“かがり”を撮ることができたらこの映画は成功だろう、と」話をしながら、伊藤監督はいつのまにか上村佳子のことを“かがり”と呼んでいた。

「撮影は基本的に順撮りです。窓拭きのゴンドラのシーンだけは、ロケ場所の交渉に時間がかかったのでいちばん最後に撮影しましたが、それ以外は順撮り。それも撮影しているときの彼女の変化を映したかったからですね。まず東京の息苦しい風景のなかにいる“かがり”を撮って、そのあと下北へ行った。佐々木すみ江さんとの入浴シーンで彼女がかなりリラックスした表情を見せているのは、そういう順番で撮っていたことが大きいですね。佐々木さんは、イマヘイ(今村昌平)監督の『にっぽん昆虫記』を観たときから大好きな女優さんで、是非出てもらいたいとお願いしたんです。その気持ちが伝わったのか、入浴シーンではなにも言わず裸になってくれた。リバイバル上映のとき、木内みどりさんに久しぶりに会ったら、『あなたは佐々木さんと私とかがりちゃん、3世代の女のヌードを撮った。“脱がせ上手”だからAVに行ったのね』と言われましたけれど(笑)」


 木内みどりは、“かがり”の母親・れい子役を演じている。子どもと向き合うことのできないシングルマザーで、“かがり”の孤独を生み出している人物といえるが、映画を観ていると、この母親も彼女なりの孤独をかかえながら生きていることがわかる。観客は、一人ひとりの登場人物が孤独と向き合う、あるいは向き合えないさまを目の当たりにしながら、そこに自身の孤独を見いだすことになる。
 映画のもうひとりの主人公である青年・良もそうした鏡のような存在だ。演じる界健太は、どのようにキャスティングされたのだろうか。


「当時、僕は“闘魂組”という若手俳優が集まる塾のようなものを主宰していたんです。ほかの劇団に所属している若い役者も含めて7~8人来ていました。界健太もその一人で、当時は演劇集団円の研究生だった。で、実は僕の弟なんです。キャスティングにあたって、“闘魂組”にいたほかの俳優と一緒にカメラテストをおこない、なかには佐藤浩市似のイケメンもいたのですが、その彼と“かがり”を並らべると、彼女がフッと女の顔になるんですよ。ところが弟はものすごく不器用でストイックなやつなので、そうはならない。それで彼をキャスティングしました。なんというか、あからさまに性的な、ロリータの映画にはしたくなかった。“かがり”と良のあいだには、最後までそういうものとは違う、独特の空気が漂っていてほしかったんです」

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