●『夜をぶっとばせ』のはじまり
鵜飼 今日、いろいろ資料を持ってきたんですけれど……これがいちばん最初に僕がつくった企画書なんですよ。『十五歳・ナミエ白書』という仮タイトルは僕の発案で、おそらく『いちご白書』(1970年、スチュアート・ハグマン監督)からの連想ですね。ああいう若者の生の青春を描くような作品にしたいという意図が当初からありましたから。このなかに中田玲子さんが書いたルポも入っています。
——主演の高田奈美江さんは『嗚呼!!花の応援団』(1976年)の出演者の姪にあたる方だそうですね。
鵜飼 そうです。お父さんは新聞記者で、中学卒業間近に学校から追い出されて、「東京に出たい」と曽根さんに相談してきた。曽根さんはなんでも引き受けちゃう人なので、とりあえずフィルムワーカーズの電話番をやらせることにした。僕も最初は「えっ、こんな子に電話番やらせるの?」と困ったんだけど、働き始めるとすごくソツなくこなすんですよ。言葉遣いも丁寧で、実はこの子、頭がいいんだなと思ったのを憶えています。演技のワークショップもやっていましたが、テネシー・ウィリアムズの戯曲なんかすらすら読んじゃうしね。
同じ頃、並木座のアルバイトで、大学を卒業して物書きになりたいと言っていた中田玲子さんもワーカーズに出入りするようになって、歳が近いせいか奈美江ちゃんとも親しく話すようになった。
それで奈美江ちゃんの話を聞いていると、結構面白い人生を歩んできているし、「自分のことを書いてみたら」とアドバイスしたんです。そうしたら彼女は電話番の合間をぬって大学ノートに自分の体験を書くようになった。読んでみたらものすごく面白い。曽根さんに話したら、「これは映画になるよ」と。それで中田さんにあらためて奈美江ちゃんの密着取材をしてもらって、この企画書をまとめました。
——撮影はどのくらいの期間で?
鵜飼 3週間くらいです。曽根組はスケジュールオーバーすることが多かったから、かなりスムーズに運んだほうですね。
——シンナーの吸引シーンやかつあげのシーンは大変リアルですが、曽根監督の演出はどのようなものでしたか?
鵜飼 そういう細部をリアルに見せたいというのは曽根さんのこだわりでもあったけれど、半分は奈美江ちゃんの演出と言ってもいいんじゃないかと思います。彼女が自分の体験をもとに、ほかの子たちにも演技をつけていました。
——風景や空間の切り取り方も秀逸ですね。高田さんの自宅の風情とか。
鵜飼 奈美江ちゃんの家のシーンは実際に群馬の彼女の家で撮ってるんですよ。ただ、前橋駅のシーンは現地で撮影することができなかったので、実は国立で撮っています。あの頃の国立駅は前橋駅にそっくりだったんです。
——東京で暮らす少女・理佳子を演じた可愛かずみさんはどういう経緯でキャスティングされたのですか?
鵜飼 『夜をぶっとばせ』の準備中に曽根さんは日活で『悪魔の部屋』を撮り、さらにワーカーズのもう一人の監督である渡辺護監督にも映画を撮ってもらおうということで、僕が交渉し、日活から『セーラー服色情飼育』(1982年)の企画を請け負ったんです。
ところが面白いのは、『セーラー服色情飼育』の主役も『夜をぶっとばせ』の東京の女の子役役ももともと可愛かずみがやるはずじゃなかったんですよ。『セーラー服色情飼育』のほうは予定していた女優さんが一週間前に突然降りてしまい、西村隆平さんが各事務所に当たって、連れてきたのが可愛かずみだった。それで急きょポスター撮りをしたんだけど、ものすごくいいから、ひょっとしたらこの子は売れるかもしれないぞ、と思いました。
一方、『夜をぶっとばせ』の役は当初、村上里佳子を予定していたんです。それが諸事情で駄目になり、『セーラー服色情飼育』の撮影が終わってワーカーズの事務所に遊びに来ていた可愛かずみを曽根さんが見て、「あ、この子でいいじゃない」と言ったんですね。だから、彼女の役名が「理佳子」となっているのはそういう理由なんですよ。つまり、高田奈美江のパートが彼女の実人生を参照しているのと同じように、理佳子のパートも村上里佳子の過去の話を参考にしてドキュメンタリータッチで撮ろう、という意図だったんです。ただ、結果的に可愛かずみはとてもいい雰囲気を出してくれたと思うし、このあとアイドルとしてどんどん人気者に
なっていきましたね。
企画書段階でのタイトルは「十五歳・ナミエ白書」「バージン同盟/炎の十五歳」だった。キャストの箇所、可愛かずみが演じた理佳子役に村上里佳子(現RIKACO)の名前がある。村上里佳子の当時のライフスタイルを脚本の中田玲子が役柄に反映させた里佳子役は村上本人が演じる予定であった。諸事情により、可愛かずみが演じることになったが、企画段階では本人が本人を演じる二人のヒロインという特異なフォーマットの映画を曽根監督が撮影しようとしていたことがわかる。
——ストリート・スライダーズの起用はどのような経緯で?
鵜飼 この最初の企画書にも「若者に人気のロックバンド」と書いたように、最初からロックバンドを映画のなかに出そうとは考えていたんです。初めは横浜銀蝿あたりのイメージでした。スライダーズはたしか立川直樹さんの紹介だったんじゃないかな。エピックソニーが「スライダーズを使ってくれるなら、1000万円出します」と言ってきて、それはひじょうに大きいから、全面的に映画に使うことに決めたんです。「夜をぶっとばせ」という曲もこの映画に合わせて彼らにつくってもらいました。
——完成した映画は当時かなり評判になりましたね。
鵜飼 ええ。まず文芸坐で完成試写をやったんですが、客席は満杯になって、評判も上々でした。それで歌舞伎町の東亜興行が上映してくれることになり、当時できたばかりの新宿オスカーという300人くらい入る映画館で公開したら、これがバカ当たりした。ここに当時の新聞記事のスクラップがありますけれど、ほとんどの新聞が大きく取り上げてくれて、TVでも紹介されました。
——やはり実際の不良少女がそのままの役柄で映画に出たということが一種スキャンダラスな話題を掻き立てた面は大きかったのでしょうか?
鵜飼 当時は校内暴力などが社会問題として浮上してきた時期で、『積木くずし』が大変な話題になるなど、こうした題材に注目が集まりやすくなっていたというのはあると思います。ただ、僕らとしてはそこまで社会的なテーマを打ち出そうと考えて始めたわけではなくて、一人の女の子の生き方についての映画を撮ろうとしたつもりなんです。
●フィルムワーカーズ以後
——フィルムワーカーズの次回作として『女高生E.T.』という高田さんと可愛さんを再び起用した企画もあったようですが……。
鵜飼 『夜をぶっとばせ』には、奈美江ちゃんと可愛かずみが直接絡むシーンがなかったんですけれど、実際には二人はすごく親しくなっていって、その仲良さげなさまを撮りたいということで持ち上がった企画です。ただ、脚本を書き始めてみると、ありきたりな青春ものにしかならない感じがして、結局頓挫してしまいました。
——高田奈美江さんとはその後、連絡をとられていたのですか?
鵜飼 いえ、一時期まで音楽活動をしていたことは知っていますが、ワーカーズが傾いてからは会う機会もなく、そのうち連絡先もわからなくなって……。
——その後、フィルムワーカーズは『連続殺人鬼 冷血』(1984年、渡辺護監督)、『ブレイクタウン物語』(1985年、浅尾政行監督)を制作しますが、鵜飼さんが去られたのは?
鵜飼 『ブレイクタウン物語』の撮影が終わる頃ですね。その頃はもう金銭的トラブルで会社は危うくなっていて、このままいてもどうにもならないということで辞めました。その後の経緯はよく知りませんが、一、二年後に曽根さんも業界から姿を消して、映画の権利も借金のカタにとられるかたちになって……。結局、九州で見つかるまで僕も曽根さんとは連絡も取り合わず、どこにいるのかもわからないままでした。
——その後、鵜飼さんはフリーで園子温監督、佐藤寿保監督など個性的な監督の作品に参加されていますが、2010年公開の『桃色のジャンヌ・ダルク』では監督もされていますね。
鵜飼 そう、『桃色のジャンヌ・ダルク』は『夜をぶっとばせ』のことを意識しながら撮った作品です。こっちは完全にドキュメンタリーだけれど、発端はやはり増山(麗奈)さんという特異な女性との出合いで、彼女の生き方をそのまま映画にするという意味では『夜をぶっとばせ』と共通していましたからね。奈美江ちゃんも増山さんも不思議なカリスマ性があって、出合った人とすぐに打ち解けて、自分の側に引きずり込んでしまうような魅力があるんですよ。