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『“BLOW THE NIGHT!” 夜をぶっとばせ』発売記念 鵜飼邦彦インタビュー

取材・構成=佐野亨twitter-bird-white-on-blue-150x150.png



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日活時代の鵜飼氏




本物の不良少女が自らの実生活を反映していた役柄を演じたとして、公開当時大変な話題をさらった問題作『“BLOW THE NIGHT !” 夜をぶっとばせ』。紆余曲折を経て、今回初めてDVD化されるこの映画の制作秘話を、曽根中生監督とともに制作会社フィルムワーカーズを設立し、プロデューサーを務めた鵜飼邦彦さんに訊いた。

●「これだけはDVD化してくれ」
——『“BLOW THE NIGHT!” 夜をぶっとばせ』は、1983年に公開後、VHSのビデオソフトは出ましたが、その後は長らくDVD化もされず、曽根中生監督の特集上映などでもかかることがありませんでした。今回は念願のソフト化となったわけですが、この間の経緯はどのようなものだったのでしょうか?

鵜飼 なにしろ制作会社が現在はもう存在していませんからね。原版がどこにあるのかさえ長いことわからなかったんですよ。2014年にシネマヴェーラ渋谷で曽根さんの特集上映をやったとき、是非上映できないかという話があって、探したら東映の現像所にあることが判明したんです。ところが、フィルムワーカーズが倒産した際にかなりの借金が残っていて、そのカタにとられてしまっている状態だった。それでそのときは諦めたんだけれど、どういう経緯か、その後日活に権利が移ったんです。そこからようやくDVD化に向けて動き出すことができました。

DIGレーベル古賀 私は以前、『博多っ子純情』(1978年)をDVD化する際に曽根監督と知り合って、それ以来ずっと『夜をぶっとばせ』の原版と権利がどこにあるか追っかけていたんです。ネガが東映ラボさんにあるのは早い段階で突き止めたんですが、権利関係が不透明なままでした。だから、権利が日活さんに正式に移ったという話を聞いたと同時に曽根監督と出会ったときから準備していたDVD化企画を持ちかけました。曽根監督は『夜をぶっとばせ』が自分にとっては最大の自信作で「これだけはDVD化してくれ」とおっしゃっていたんです。それだけにご存命のうちにDVD化できなかったのが惜しまれますが、今回ようやく念願が叶いました。

●日活、そしてフィルムワーカーズ設立へ

——鈴村たけしさんとともに編集された本『女優芹明香伝説』(ワイズ出版)のあとがきによると、鵜飼さんは淀川長治さん主催の「映画友の会」にいらしたそうですね。

鵜飼 高校生の頃ですね。鈴村さんは僕より二つ年上で、その会で知り合って以来のお付き合いです。映画は中学のときに観始めて、僕の世代はそういう人が多いと思いますが、しょっちゅう映画館に通っていました。ただ、生意気だったから日本映画なんか全然観ないで、おもにフランス映画やイタリア映画を好んで観ていました。

——そうして1969年に日活に入社される。

鵜飼 当時は19歳、高校を卒業してすぐですね。映画の仕事をやりたい気持ちは以前からありましたが、現場で皆と侃々諤々やり合うのが得意なタイプではないから、個人作業である――実際には集団作業的な面も大きいんですけれど――編集の仕事をやりたいな、と。あと、当時観ていた『ウエスト・サイド物語』(1961年)のロバート・ワイズにしても、『アラビアのロレンス』(1962年)のデヴィッド・リーンにしても皆、編集マンから監督になった人たちで、「編集は映画の命だ」みたいなことを言っているんですよね。それで編集という仕事に興味がわいた。ただ、その頃は映画学校もなかったし、どうすればなれるだろうと考えていたところへ、たまたま日活の編集助手募集の知らせを見つけて、面接を受け、入ることができました。
 当時はまだやくざ映画が全盛で、いちばん最初についたのが扇ひろ子主演の『昇り竜 やわ肌開帳』(1969年)。鈴木清順門下の葛生雅美監督のデビュー作ですね。あとは日活ニューアクション系の小澤啓一さんとか。編集マンはほとんどローテーションなので決まった師匠はいませんでしたが、いちばん多くついたのは井上治さんと鈴木晄さんでした。

——その後、ロマンポルノ路線に変わって、曽根監督とお仕事をされることになるわけですね。

鵜飼 彼の監督デビュー作『色暦女浮世絵師』(1972年)から『らしゃめんお万』(1972年)、『性談牡丹燈籠』(1972年)と立てつづけに編集助手としてついていますが、その頃はペーペーなので監督と直接やりとりをする機会はほとんどありませんでした。
 それで僕は1979年に日活を辞めて、そのあと、いまは周防正行監督の作品などで編集をやっている同期の菊池純一と退職金を出し合い、新宿ゴールデン街でしばらく店をやっていたんです。日活の人たちがお客さんとしてたくさん来てくれて、そのなかに曽根さんもいた。個人的に付き合うようになったのは実はそれからなんですね。
 僕も店をやりながらフリーで編集の仕事を受けることになって、1981年の『白日夢』(武智鉄二監督)がフリーとしての一本目。あれは日本で現像できなかったので、香港で現像したんですよ。『白日夢』は、大島渚監督の『愛のコリーダ』(1976年)と同じく映画のなかでの本番行為が話題になった作品で、『愛のコリーダ』は浦岡(敬一)さんがパリで編集したけれど、『白日夢』のときは予算がなかったので香港に持っていったんです。武智さんは映画の人じゃないから、能みたいに同じ動きをリフレインさせたり、編集でも独特な間を求められました。

——そして、1982年に曽根監督とフィルムワーカーズを設立される、と。

鵜飼 当初松竹で映画化の話が進んでいた『悪魔の部屋』(1982年)の企画がいったんポシャッて――その後、日活で制作することになりますが――次の手を考えているうちに、曽根さんがスポンサーを見つけて、「会社をつくろうと思うんだけど……」と持ちかけてきた。いま思うと、僕はプロデューサーの経験もなかったわけで、どうして声をかけられたのかよくわからないんですけれど(笑)。五社体制が崩れたあと、ちょうどディレクターズ・カンパニーもできた頃で、独立プロで映画をつくる監督が増え始めた時代ですね。で、曽根さんのほかに、もう一人監督がいたほうがいいだろうということで、渡辺護さんの参加を僕から提案して。ATGの『不連続殺人事件』(1977年)で曽根さんと組んだ西村隆平さんにも来てもらった。さらに、作り手だけでなく興行関係の人たちを入れたほうが面白いんじゃないかと思って、文芸坐の支配人だった鈴木昭栄さん、並木座の小泉作一さん、上板東映の小林紘さんに加わってもらいました。

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