『人間に賭けるな』(64年)

  解説・高鳥都(ライター)

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【なにを賭けるべきか、女と男、
         なれの果ての日本競輪映画史】



 追い詰められていた。焦燥に駆られていた。DIGレーベルの日活レア映画復刻シリーズ、幻の名匠・前田満州夫第2弾にセレクトした『人間に賭けるな』(64年)のデジタルライナーノーツを書かねばならぬ。しかし、締切を過ぎた11月13日の日曜日、わたしは大宮競輪場にいた。
 ギャンブル経験の乏しい身の上、高校野球の優勝予想に付き合い、たまに『新必殺仕置人』のパチンコを打つくらいだ。競輪映画について書くなら、そのロケ地に行くしかないだろう。そうしなければ書けないと自分を追い込み、怠惰なスランプの言い訳にしていた。

 『人間に賭けるな』だけでなく、たとえば三池崇史の『岸和田少年愚連隊 血煙り純情篇』(97年)、たとえば野田幸男の『特捜最前線』第204話「19才の犯罪日記!」(81年)、映画・テレビにおける“競輪”は素人目にも妙な興奮を呼び起こす。
 打鐘の音、選手の肉体、群衆の歓声……大型動物の走りを眺める競馬や機械相手のパチンコより、はるかにビジュアルの強度がある(もうひとつの雄たる麻雀は置いておこう)。なめらかなカーブを曲がる自転車や金網越しの怒号も絵になるし、じつに映画的欲望が映えるジャンルだ。さすが阿佐田哲也が「ギャンブルの終着駅」と言っただけのことはある。
 かくして大宮競輪場、こたびの原稿料を上回る額の車券を買ってみた。乞食の二点張りはやるなよと『競輪上人行状記』──1963年に公開された日活競輪映画の大傑作──の小沢昭一から学んでいたので、一点突破で買うしかない。よくわからぬまま奇数で流してみた。
 カーンと鐘が鳴り、たちまち場の熱気に呑まれ、ペダルを漕ぐ足に夢中になった。これが人間に賭けるということか。第5レースから第12レースまで、めくるめく……。結果は払い戻しゼロ。全額スッてしまったが、ようやく原稿が書けるぞ! おやじたちで賑わう食堂のしょうが焼き定食はおいしかった。


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 「ケイリン、ケイリンって何ですか?」「自転車競争ですよ。日本では自転車に乗るプロ選手に金を賭けるのです」──競輪を通じて、尋常ならざる人間模様を積み上げる異形のメロドラマこそ『人間に賭けるな』である。すべてを投げ打って“賭け”に執着したひとりの女と、その情熱に魅せられ溺れていく男を描く。女の名は小松妙子、男の名は坂崎彰──
 主演は『果しなき欲望』『人間狩り』などワケあり女を演じさせたら絶品の渡辺美佐子。『競輪上人行状記』に続いて競輪に狂う役どころ、本作では“姐さん”と呼ばれる組長のオンナに。刑務所に入っているダンナに内緒で若き競輪選手にのめり込んでゆく。
 多額の使い込みで破滅寸前の会社員・坂崎を演じるのは藤村有弘。インチキ外国語が持ちネタのコメディアンだが、自転車競技に憑かれた男を仏頂面で演じ、渡辺美佐子と汗だくの狂宴を繰り広げる。競輪場からの帰り、乗り合いタクシーでふたりは出会い、大宮、西宮、名古屋と競輪場を転々と。ギャンブル映画とは思えぬ観念的な会話が連なる最中、妙子と坂崎が結ばれるオンボロの連れ込み宿は突如としてロダンの彫刻「地獄の門」の様相を呈し、競輪を入り口にした日常からの脱却、覚醒をエスカレートさせてゆく。
 妙子と美代子、女ふたりとの三角関係をこじらせた八百長選手・飯田に川地民夫。美代子を演じる結城美栄子の若き一本気がレースの行方を左右する。もはや勝つためでもなく、ひたすら妙子は飯田の車券を買い続ける。己の人生を他人に賭けて、破滅へまっしぐら。渡辺美佐子のあだっぽさと藤村有弘の陰鬱さ、混ぜるなキケンの見事なキャスティングである。


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 原作は『競輪上人行状記』と同じく寺内大吉、松竹ヌーヴェルヴァーグの森川英太朗と田村孟がシナリオを手がけ、アヴァンギャルドな前田満州夫演出が応える。『競輪上人』の説法に対し『人間に賭けるな』では聖歌を流して、コントラストをなす。前田が愛したクラシック音楽も思わぬ使われ方で狂宴に加担するが、そのぶん前作のようなギャンブル映画の高揚感や実践的要素は薄らいだ。
 競輪場の雑踏にキャストを放り込んでの手持ちカメラ、はたまた図式的なフィックスの構図に団地四世帯ぶち抜き移動ショット……撮影は間宮義雄によるもの。先にDIGレーベルよりDVD化された『狂熱の季節』(60年)をはじめ蔵原惟繕とのコンビで名を馳せた“動”のカメラワークが不定形の展開にマッチする。まくり、まくられ、バイタリティたっぷりに堕ちてゆく男女の行く末、映画とは日常でおいそれと拝めない風景を眺める行為なり。キーポイントとなる真俯瞰ショットの多用は見る側の感情移入を撥ねつけ、遮断するかのようである。

 今回のデジタルライナー執筆に合わせて、初めて原作を読んでみた。まず寺内大吉について解説すると、浄土宗の僧侶にして競輪好きの小説家。1960年に「はぐれ念仏」で直木賞を受賞、没後に「寺内大吉記念杯競輪」というレースが誕生したことからも偉人ぶりがわかるだろうか。
 『人間に賭けるな』の原作は、桃園書房の『小説倶楽部』1959年8月号に掲載された同名の短編小説。<愛と情欲の昂奮を托した「賭け」に生命を張って人生の階段を堕ちていった女!>というリードからも一目瞭然、当時の庶民の娯楽たる倶楽部雑誌らしい煽情的な内容だ。思いのほか映画は原作に忠実であり、坂崎の家庭・勤め先の描写や観念的なセリフがないだけにソリッドな印象が強い。スパッと短い文章のなかに止まらぬ欲望が棲みついている。


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『小説倶楽部』に掲載された寺内大吉の短編「人間に賭けるな」


 そして、脚本も読んでみた。早稲田大学演劇博物館図書室に4冊が収蔵されており、未定稿とあるバージョンだけ脚本のクレジットが「森川英太朗 田村孟 前田満州夫」の連名になっていた。ほかの台本の表紙には「小沢昭一様へ」と書かれており、配役のトップ・坂崎彰の上に赤マルが付いている。
 この台本は小沢昭一亡きあと関係者が早稲田大学に寄贈したものであり、すなわち『人間に賭けるな』は『競輪上人行状記』の延長線上にある企画というだけでなく、主演も同じ小沢昭一が予定されていた可能性が高い。最終的に藤村有弘となり、役ごと主役の座から外れてしまったが。
 「競輪に行くやつなんかぐうたら それを、曰くありげに、ニヒルに、何故」──台本を開いてすぐ、小沢の手書きと思われるメモが残されており、坂崎が妙子に放つセリフ「あんたに賭ける気になったんだよ!!」にも線を引いて「何故」とある。坂崎が連れ込み宿で妙子と関係をもつシーンには「そんなこと出来るやつなのか?」との疑問が。「ラーメン屋の小僧が読む読切小説」との指摘まであり、なかなか手厳しい。
 大西信行と今村昌平が脚本を手がけた『競輪上人行状記』において小沢昭一はレース狂いの僧侶を演じて評判を集めたが、その後継企画たる『人間に賭けるな』の脚本には納得できず降板したのだろうか。あるいは単にスケジュールが合わなかったのだろうか。

 「僕はこの二日間、サラリーマンになってから、ついぞなかったくらいの昂奮を味あわせてもらった。今まではちょうど肺病病みがイキするのも気遣って縮こまっていたのに、今度は堂々と胸を張って、肺が破れてもいいから空気を吸ってみる──そんな気持ちだった。自分の生活が全部駄目になってもいい。大バクチを打ってやるんだって気持ち──生きていたよ、僕は。……それも全部、あなたに会ったおかげなんだ」

 この坂崎による妙子への告白にも、ひとこと「長い」とコメントが書かれており、映画独自の脚色に納得がいっていない様子がうかがえる(上記のセリフは決定稿で変更されており、本編との見比べも一興)。
 松竹ヌーヴェルヴァーグの一員であり、大島渚率いる「創造社」に当時所属していた森川英太朗と田村孟は持ち前の観念性を通俗小説の映画化に取り入れたが、それは主役候補を納得させるものとはならなかったのだろうか。決定稿も渡辺美佐子や川地民夫、そのほか端役までキャストが決定しているのに一番手の坂崎彰役だけ空欄であり、藤村有弘に決まったのは直前であったことがうかがえる。ただし、この藤村のすばらしさは前述のとおりだ。
 完成した『人間に賭けるな』は立派な異色作となり近年の再評価につながっているが、より土着的な『競輪上人行状記』でデビューした西村昭五郎がのちに日活ロマンポルノの最多監督になったのとは対照的に、本作は前田満州夫最後の監督作となり、その才気を封印してプロデューサーに転じてしまった(2018年に亡くなった前田の軌跡はデビュー作『殺人者を追え』のデジタルライナーを参照のこと)。


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『砂の上の植物群』と『人間に賭けるな』の二本立て新聞広告


 1964年8月29日、『人間に賭けるな』は『砂の上の植物群』の併映作として公開されており、どちらも成人映画指定を受けている。独立系のピンク映画の猛威に対抗して日活が送り出したエロティック企画であった。堕ちゆく男女を建前に(いまの観点からはソフトながら)渡辺美佐子のベッドシーンを最大のウリにしたことがわかる。『にっぽん昆虫記』(63年)や『赤い殺意』(64年)、いまや日本映画史に残る今村昌平の監督作もエロとは切り離せない。
 妻の前田禎子さんによると「ポルノがイヤで日活を退社した」そうだが、ロマンポルノへの転向前に前田は国際放映に移籍しており、時期はやや食い違う。映画界の斜陽化による過激路線に抵抗があり、テレビのホームコメディに愛着があったという前田にとって、もしや最後の監督作は資質と異なる作品だったのかもしれない。
 しかし、それも亡き作り手に対する勝手で過剰な思い込みだ。予想でしかない。まず厳然たる事実として「ソフト化自体が賭けともいえるギャンブル映画の大穴!」とハッタリめいた宣伝文句とともに前田満州夫監督作品『人間に賭けるな』はよみがえった。今後も再評価を集めることだろう。それだけの強度があることは、作品そのものが証明している。

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 さて、まくりの駆け足で「日本競輪映画史」についても記していこう。競輪は日本発の公営ギャンブルであり、1948年11月に北九州の小倉からスタート。そのブームによって競輪を題材にした映画が相次ぐ。
 新東宝の『戦後派親爺』(50年)では素人競輪大会が描かれ、『シミキンの無敵競輪王』(50年)においては東宝特殊技術部による奇想天外な特撮レースが披露された。そのほか『戦慄』『かっぽれ音頭』『ペ子ちゃんとデン助』などジャンルを問わず競輪がらみの作品が出現し、『シミキンの拾った人生』(52年)ではコメディアンの清水金一がふたたび競輪選手に。『煙突の見える場所』(53年)の田中絹代は、場内をまわる払い戻しの両替屋として身を立てた。
 1956年、新東宝が前田通子主演の『女競輪王』を公開。自転車をこぐ太ももというスポ根セクシーをウリに業界の暗部を描いたが「あくまでフィクション」と全国自転車振興会と東京自転車選手会が協力し、日本初の本格的競輪映画となった。監督は小森白、原作は竹森一男の小説『欲望の広場』、大映が京マチ子主演で映画化を企画し果たせなかったものという。
 石原慎太郎原作の『完全な遊戯』(58年)はノミ屋詐欺をめぐる若者たちの群像劇、増村保造の監督デビュー作『くちづけ』(57年)や小津安二郎の『小早川家の秋』(61年)など意外な作品にも競輪場が出てくるので油断できない。蔵原惟繕の『硝子のジョニー 野獣のように見えて』(62年)では日活のスター・宍戸錠が若き競輪選手にのめり込む予想屋を演じ、みふね役の芦川いづみにとって自他ともに認める代表作となった。

 かくして日活から真打ちの『競輪上人行状記』(63年)が登場。寺内大吉の短編「競輪上人随聞記」を大きくアレンジした本作は、『映画芸術』において無頼映画評論家の斎藤龍鳳が「赤鉛筆で二重丸」と激賞するなど高い評価を受けたが、意外や『キネマ旬報』では白井佳夫が手厳しい評価を下している。
 「西村昭五郎監督に、もの申したい気のする作品である」という鋭い書き出しで、小沢昭一の予想説法から遠ざかっていくラストのカメラワークも「このヨソヨソしい効果は、むしろ僕にまったく反対の方法を考えさせた」──逆に肉迫すべき、と白井は主張した。そして『人間に賭けるな』(64年)が企画されたが、前作ほどの注目は集まらず、日活の競輪映画は2本で打ち止めとなった。


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 不良性感度がウリの東映において賭博は日常風景。山城新伍主演の『喜劇ギャンブル必勝法』(70年)、滋賀銀行9億円横領事件をもとにした低予算ポルノ『史上最大のヒモ 濡れた砂丘』(74年)など競輪も欠かせない。『仁義なき戦い 広島死闘篇』(73年)では競輪場の利権をめぐる争いから便所が爆破された。
 大映映画の『ギャンブル一家 チト度が過ぎる』(78年)は「雀・パチ・馬・輪・艇・骰子・花札・将棋」と総ざらい、博打に造詣の深い馬場当が脚本を執筆した。ATGの『青春PARTⅡ』(79年)は競輪学校を出た青年(南条弘二)が選手になるさまを描く。佐世保を舞台に競輪選手の中野浩一と藤巻昇も姿を見せており、ずばり原題は「走る!」であった。
 佐藤正午原作の『永遠の1/2』(87年)、『リボルバー』(88年)を経て、90年代にはオリジナルビデオシネマ──いわゆる“Vシネ”の隆盛によってギャンブルものが多発。麻雀とパチンコが二大ジャンルだが、小松隆志の『打鐘』(93年)に次ぐ、黒沢清の怪作『打鐘 男たちの激情』(94年)は権利元の倒産によってレア作に。萩原雅宏の『ニッポン競輪アカデミー 青春,ジャン!』(96年)をふくめて、いずれも中野浩一が関わっている。 Vシネの帝王・竹内力による「難波金融伝 ミナミの帝王」シリーズ(92~07年)ではギャンブル狂の債務者が不可欠、いまはなき花月園競輪場や福山競馬場などでロケが行われた。

 じつは近年、競輪映画が盛況である。『くじけないで』(13年)では武田鉄矢が、『海よりもまだ深く』(16年)では阿部寛が、『凪待ち』(19年)では香取慎吾が競輪にハマる姿を見せており、『そこのみにて光輝く』(14年)においてはパチンコ屋と競輪場がどん詰まりのドラマに貢献、吉本興業の地域発信型映画『たまの映像詩集 渚のバイセコー』(21年)は岡山県の玉野競輪が舞台となった。
 九州福岡のCMディレクターとして名を馳せた江口カンの初映画『ガチ星』(19年)は、崖っぷちのおっさんの再生を描いて見ごたえたっぷり。舞台は競輪発祥の地である小倉、テレビ西日本の連続ドラマ版を再編集して劇場公開を果たした。主演の安部賢一は競輪学校に通った過去があり、オーディションで一発逆転のチャンスを手に入れている。

 ドキュメンタリー映画『川崎競輪』(16年)は、会場近くの立ち飲み屋に集まる高齢者を定点観測して、なんともたまらんコクがある。歌手の友川カズキに密着した『どこへ出しても恥かしい人』(20年)も人間に賭ける姿がどこまでも。いい声の怒号が立て続けに響く。脚本家の橋本忍や監督の瑞穂春海など“競輪狂”としての伝説をもつ映画人がいることも記しておこう。
 テレビからも1本だけ、『どこまでドキュメント 映画を食った男』(84年)は必殺シリーズの進行係を務める鈴木政喜(通称:会長/老けた横山やすし風)が予算をごまかし酒と博打につぎ込み、ヒロポンの告白をしたあと孫にファミコンを買うためスタントマンとして2階の屋根から飛び降りる「京都映画撮影所版蒲田行進曲」。ちんたら自転車でロケ地に向かう様子にパパッと競輪の画が差し込まれる編集がすばらしく(もちろん、そのあと……)、やはり競輪とは映画的欲望が映えるジャンルであることを痛感させてくれる。

 さて、おしまいに告白すると、今回のデジタルライナーノーツは当初わが大宮競輪初体験記が文章の8割を占めていた。いままでと似たような原稿をコツコツ書いても仕方ない──自分なりの大穴狙いであったが、普通にDIGレーベルの担当者からNGが出て、突っ返された。ゆえに、こうなった次第。最後に「文字が小さい」「薄い」「読みづらい」と読者から評判の当サイト、今回は文字が大きくならんもんかと、あえてもう一度賭けに出て、幕引きとしたい。


【ご指定どおり文字の級数を大きくしました/DIGレーベル】




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