●『現代っ子』
  解説・佐藤利明(娯楽映画研究家)

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【倉本聰企画ドラマのTHE MOVIE】


 昭和30年代、日活ではさまざまな形で「時代の反映に取り残された子供たち」が、つましくも健気に、前向きに行きていく姿を描いたハイティーン映画を製作してきた。長門裕之の『にあんちゃん』(1959年・今村昌平)、吉永小百合と浜田光夫の『キューポラのある街』(1962年・浦山桐郎)、浜田光夫と市川好郎の『煙の王様』(1963年・樋口弘美)など、高度成長の反映の影で、貧しくとも健気に、懸命に生きていく少年、少女たちの姿を感動的に描いた佳作が多い。
 昭和38(1963)年、翌年に開催される東京五輪ムードが高まり、東京中が道路工事や建設ラッシュで騒然としていた。大衆のレジャーも多様化、娯楽の王様だった映画も、次第にテレビにその役割が取って変わられようとしていた。
 この頃、テレビの人気を映画に取り入れようと、映画会社の企画部も必死だった。前述の『煙の王様』も、もとはT B S「東芝日曜劇場」で放映された芸術祭賞受賞作(演出・円谷一)の映画化。その評判を受けて日活で映画化されたものだった。
 この『現代っ子』も昭和38年4月1日から昭和39(1964)年4月6日まで1年間、日本テレビ系列で放送されたテレビドラマの映画化。それも放送3ヶ月目の7月28日公開なので、放映直後に企画されたものだろう。
 ドラマ「現代っ子」は、ニッポン放送のディレクターで放送作家だった倉本聰が、企画書から立ち上げたオリジナル作品。警察官の父親を交通事故で失った、高校生の長男・やすし(鈴木やすし)、中学3年生の長女・チコ(中山千夏)、中学2年生の好夫(市川好郎)たちが、母親(賀原夏子)ともに、たくましく生きていく姿を生き生きと描いている。この「たくましく生きる」姿が、「現代っ子」らしく、大人も顔負けの才覚と機転の「チャッカリ」「ガッチリ」が視聴者に支持された。この頃、ちょうどハナ肇とクレイジーキャッツの植木等が「スーダラ節」「無責任一代男」「ハイ、それまでョ」などの無責任ソングが、子供たちの間でも大ブーム。特に次男・好夫は「無責任男」を実践しているような、まさに「現代っ子」でチャッカリ屋として描かれていた。映画の中でも植木等の話題が登場する。

 企画・脚本の倉本聰は、ニッポン放送の社員だったが、ラジオドラマなどで一躍注目を集めたために退社。フリーとなってすぐだった。「現代っ子」放映開始直後に、日活で石原裕次郎をスターダムにのし上げたプロデューサー、水の江滝子が映画化を企画。その頃、水の江滝子は自らのプロダクション「水の江企画」を設立、倉本は水の江の声がけで同社の役員となる。世田谷区成城の水の江滝子邸と同じ敷地内に石原裕次郎邸があり、倉本聰が水の江滝子邸で、やはり同社の役員となったスチールマンでのちに映画監督となる齋藤耕一らとディスカッションをしていると、裕次郎が顔を出すこともしばしばだった。
 さてテレビドラマと並行して企画された映画『現代っ子』の監督に、水の江滝子が指名したのは中平康だった。水の江は、昭和31(1956)年、中平がまだ助監督待遇のまま手がけた監督デビュー作『狙われた男』を所内試写で観て、その才能に惚れ込み、石原裕次郎の主演デビュー作、石原慎太郎原作『狂った果実』(1956年)の監督に抜擢した。中平にとっても「映画界の恩人」である。

 テレビドラマの映画化ではあるが、ハイティーン映画の系譜としては「日活らしい」題材でもある。やすし(鈴木やすし)、チコ(中山千夏)、好夫(市川好郎)の三人に加えて、日活のグリーンラインの若手、松原智恵子、田代みどり、ベテラン・小沢栄太郎、岸輝子、そして嵯峨善兵、桂小金治と芸達者が加わって、賑やかなドラマが展開していく。テレビの良さを映画ならではのスケールで描いていく、という企画である。ちなみに母親役は、映画では菅井きんが演じている。
 当時の日活宣伝部のプレスシートに「宣伝ポイント」として【人気高潮の市川好郎を中心に、大胆、奔放な“現代っ子”そのものの魅力を押し立てたい】また【裕次郎を中心に大きな世論を呼んだ“太陽族ブーム”以来の、“現代っ子”ブームを期待できる】とある。
 市川好郎は、昭和23(1948)年生まれで、この時15歳。劇団ひまわり在籍中に、日活映画『一本杉はなにを見た』(1961年・吉村廉)に出演、続く『キューポラのある街』(1962年)で吉永小百合の弟を好演して忽ち人気者となる。テレビに映画にひっぱりだこで、吉永小百合の『いつでも夢を』(1963年・野村孝)、前述の『煙の王様』(1963年)などに連続出演。「現代っ子」の頃は、お茶の間の人気者だった。
 そしてチコ役の中山千夏は、この頃、東宝演劇部の専属で、市川好郎と同じ歳。大阪を拠点に名子役として舞台、映画に出演していたが、昭和34(1959)年、菊田一夫の舞台「がめつい奴」(芸術座)出演を機に上京。銀座の泰明小学校、築地の明石中学校に通ってテレビ、映画に出演した。しっかり者のチコのキャラクターは、のちに中山千夏が声優をつとめて当たり役となる「じゃりんこチエ」のチエちゃんにも通じる。
 長男・やすしを演じているのは鈴木やすし。主題歌「現代っ子」(作詞・西沢爽 作曲・狛林正一)をレコードリリース。中学生の頃から劇団に入り、ロカビリー歌手として「ダンディーウェスト」を結成、音楽畑で活躍してきたイメージがあるが、高校生の時に渥美清の付き人となり、喜劇修行を続けていた。昭和36(1961)年、ジャズ喫茶出演中にスカウトされてフジテレビ「ジャズ・トーナメント」の司会に抜擢されタレント活動を本格化。
 なので、本作では、ノンクレジットで師匠・渥美清が自身の役で登場する。ちょうどやすしが、友人・石田清(市村博)に唆されてタレントになるべく日本テレビへ。中庭でやすしが待っていると、そこへ付き人二人を従えた渥美清がやってきて・・・という楽屋オチ的な笑いとなる。ちなみにフリーとして、松竹、東宝、東映と各社の映画に出演していた「人気タレント時代」の渥美清の日活映画への出演は2本だけ。もう一作は、今村昌平門下の磯見忠彦監督のデビュー作『経営学入門 ネオン太平記』(1968年)での“オカマのカオルちゃん”のインパクトのあるワンシーン出演だけ。(こちらもD I GレーベルでDVD化)『経営学入門 ネオン太平記』のページへ

 東京の下町。ある日、突然、好夫の父が亡くなる。交通巡査だったが、白タク取り締まり中に轢き逃げされてしまったのだ。母の正子(菅井きん)は途方に暮れ、やすし・チコ・好夫の三人兄妹は、自分たちだけで、母を守りながら生きていこうと決意する。父の葬儀も、三人が取り仕切り、お寺も葬儀屋も断り、自分たちだけで営む。お経はテープレコーダー、鯨幕は、なんと紅白の幔幕を借りてきて、親戚一同を驚かせる。家賃がもったいないからと、やすしと好夫は、佃島で職人をしている叔父・五郎(桂小金治)とはるみ(新井麗子)の家の二階に間借りすることに。チコと母・正子は、やすしの同級生で金持ちの小川清(市村博)の家でお手伝いをしながら間借りをすることになる。
 生きにくい高度成長下のニッポンで、三兄妹が懸命に生きていく。金持ちと貧しき人々の共存と対立。他の日活青春映画にも通底するテーマだが、ここでは、東京湾の荷受け運搬を、二千艘の「ダルマ船」を使って独占している、清の父で小川運輸の社長・小川(小沢栄太郎)がブルジョワの代表として登場。かなりの俗物なのだが、やすしも好夫も、小川社長を上手くのせて、母と妹の住まい、そしてやすしの仕事の世話をさせてしまう。
 東京ロケーションも効果的で、五郎叔父さんの家のある中央区の佃島界隈の描写がいい。この映画のちょうど一年後、昭和39(1964)年8月27日、佃大橋の開通により、廃止される渡船「佃の渡し」も登場する。クライマックスには江戸落語でもお馴染み「佃祭」のなか、父親の四十九日が営まれる。「夏祭りと四十九日」のアイロニーは、本作のテーマを象徴している。
 また小川運輸が仕切っている「ダルマ船」が停泊しているのが越前堀。中央区新川に流れていた水路。関東大震災後の帝都復興で埋め立てられてきていたが、この頃はまだ隅田川から東京湾への重要な水路を担っていた。その「ダルマ船」で40年働いてきた船上生活者・田原善之助(嵯峨善兵)をめぐるエピソードが切ない。中盤、佃島の五郎叔父のところに居づらくなった好夫とやすしが、善之助と船上生活を始める。その隣の船に住んでいるのが、映画版のヒロイン、洋子(松原智恵子)である。
 映画の後半、早朝、越前堀の「ダルマ船」の上から、遠く光り輝く日本橋を見つめていたチコが、その美しさに見惚れながら「越前堀と日本橋、足して2で割ったらいいのに」と呟く。貧しさの象徴である越前堀と、豊かさの象徴としての日本橋の対比。このセリフは胸に沁みる。

 中平康は、さまざまなエピソードを重ねた倉本聰のシナリオをもとに、東京の下町、川辺の風景のロケーション。昭和38年の若者風俗を巧みに織り交ぜながら、エネルギッシュに「現代っ子」たちの日常を描いていく。
 ジャズ喫茶のシーンで、挿入歌「アイ・ティク・イット・アウト・オブ・ユー」(作詞・滝田順 作曲・伊部晴美)を歌っているのは東芝レコードの沢雄一、そのバッキングはやはり東芝の三上貞雄とレッド・コースターズ。佃島の五郎叔父の家の向かいに住んでいる大阪弁の女の子・エリを演じているのは、この年「東京タムレ」をスマッシュヒットさせるハイティーン歌手・渚エリ。また田代みどりは、チコが転校した中学校の同級生・アコ役で登場。
 また、この翌年、中平康の代表作の一つとなる『月曜日のユカ』(1964年)の原作者でもある安川実=ミッキー安川が、好夫の中学の担任教師で出演。生徒たちの作文を利用して週刊誌で自分を売り込むマスコミ時代のちゃっかり教師を演じている。
 この映画をきっかけに倉本聰は、石原プロモーション制作のテレビ・バラエティ「今晩は裕次郎です」(N T V・1963年7月3日〜1964年1月28日)に構成作家として参加、石原裕次郎との交流が始まる。また若手脚本家として、昭和40年代の日活映画でシナリオを執筆していくこととなる。







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