●「砂の上の植物群」JUNGLE INTERRUDE
解説・佐藤利明(娯楽映画研究家)
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【『砂の上の植物群』のアンモラル】
孤高のアルチザン、中平康監督が1964(昭和39)年に発表した『猟人日記』(4月19日)、『砂の上の植物群』(8月29日)、『女の渦と渕と流れ』(10月21日)は、いずれも「性愛」をテーマにした耽美的な三部作ともいうべきエロティックな傑作群である。
『猟人日記』の興行的な成功と、大きなセンセーションを巻き起こしたこともあり、続いて企画されたのが『砂の上の植物群』である。吉行淳之介が「文學界」(1963年1月〜12月号)に一年間に渡って連載した長編小説の映画化。タイトルは20世紀スイスの画家パウル・クレーの抽象画「砂の植物」に材をとっている。「砂の植物」は1927年にクレーが描いた、キュビズム、表現主義、子供の素直な感心が凝縮された作品で、映画のタイトル画面に登場する。
中平は映画化にあたり、池田一朗(のちの時代小説家・隆慶一郎)、助監督の加藤彰とともにシナリオを執筆。モノクロ映画であるが、タイトルバックにパウル・クレーの抽象画が次々と登場するショットはカラー。いわゆるパートカラー作品となっている。
冒頭パウル・クレーの「砂の植物」が解説される。「この大小不揃いの四角形の絵は、半透明の暖かい色彩と、整然と並んだ四角形が奇妙な調和をもたらし、空気の中にいるような安定感に満ちている。しかし今、この絵の中に強烈な原色の赤を投げ込んでみたとしたら、この絵はどんな混乱を示すか? いや、この絵ではなく、それを見るもののイメージの断片がどんな方向に進んで行くのだろうか?」。このナレーションがこの映画の主題を明確に表現している。
吉行淳之介の原作は、発表当時、倒錯した性描写、密室での性行為のアンモラルがセンセーショナルな話題となった。主人公・伊木一郎(仲谷昇)は、三十四歳で早世した画家の父の影に支配されている三十七歳の中年男。仕事は化粧品のセールスマン。生活に疲れた妻・美子(島崎雪子)が、十七歳の時に、父の画のモデルをしていたこことで、父と妻との関係に妄想を逞しくしている。
ある日、横浜のマリンタワーで、真っ赤な口紅をした高校三年生の津上明子(西尾三枝子)と関係を持ってしまう。明子にとって伊木は初めての男だった。冒頭のパウル・クレーの絵の紹介ナレーション「この絵の中に強烈な原色の赤を投げ込んでみたとしたら、この絵はどんな混乱を示すか?」と、彼女の初めての体験の象徴が重なる。吉行淳之介の文学の映像化にあたり、中平康は様々な映画的技巧を凝らして、その世界観をスタイリッシュに再構築していく。モノクロ画面なのに、明子の口紅の鮮明な赤を感じるができるし、画面には一切映らない彼女の女性のしるしも、冒頭の「原色の赤」のイメージにより、観客の想像力で補われていく。
伊木としては、父が少女時代の妻を抱いたとしたら?の思いで明子を抱いたのだろうが、ここから映画はミステリアスな展開へ。明子が伊木に近づいたのは、異父姉・京子(稲野和子)を「誘惑して、ひどい目に遭わせて欲しい」と懇願する。親はすでに亡くなっており、京子がバー「鉄の槌」で働きながら明子を高校に通わせていたが、姉が男とホテルに入るのを目撃した明子は、京子は淫らなことをしているのに自分には貞節を守れという矛盾が我慢ならないのである。
前作『猟人日記』で、仲谷昇の主人公の「猟人」のターゲットとなり、無惨にも殺されてしまうオールドミスを、匂い立つような肉体で演じた稲野和子が本作のヒロイン。彼女には被虐的な趣向があり、両手を縛られることで最高の官能を得ていた。マゾヒズムという概念がまだ一般的でなかった時代、京子と伊木の密室での性行為は、相当刺激的な映像だった。名手・山崎善弘のキャメラは、アップを多用して、快楽に溺れていく京子の表情、彼女を責め立てる伊木の表情を、シャープに捉えている。中平康の映像設計も「何を見せるか、何を隠すか」が巧みで、セックス描写の中に、伊木と京子の真理の綾を観客に伝えてくれる。
稲野和子は、仲谷昇と当時の妻・岸田今日子が保証人となり、劇団民藝から文学座の研究生となった。彼女の才能をいち早く評価した仲谷が、中平康に推薦して『猟人日記』に抜擢された。生前、彼女に本作について話を伺ったことがある。濡れ場の撮影で、苦悶する表情がなかなか出来ない。すると中平が「僕、あなたの足の裏をくすぐるから、じっと我慢した顔を撮らせて」と足の裏をくすぐっって苦悶の表情を演出したという。当時、稲野和子は、吉行淳之介の感じている「性の世界」が、少しでも自分たちの映画で表現できれば成功だと感じていたと話してくれた。
また妹の明子を演じた西尾三枝子は、1963(昭和38)年、第7期日活ニューフェースとして入社したばかり。青春歌謡映画『美しい十代』(64年・吉村廉)、『若い港』(柳瀬観)で清純な女の子を演じたばかり。筆者がインタビューをしたときに、右も左もわからなかったときで戸惑ったが、中平康の言う通りの動きをして、なんとか撮影を終えることが出来たと話をしてくれた。
その明子が自分の父が他の女性に産ませた娘かもしれない。ならば自分は異母妹を凌辱しているのではないかとの疑念が伊木の頭の中に蠢く。それを考えることがさらなる性的な悦びとなっていく。まさに耽溺という言葉がふさわしい。
仲谷昇は『猟人日記』でもそうだったが、性倒錯していく中年男の弱さを的確に表現している。特に文学座で一緒に芝居をして、この時には劇団雲創設メンバーとして共に活躍していた小池朝雄、やはり文学座を脱退して劇団雲に参加していた高橋昌也の三人の中年男、それぞれのセックスに対する考えを語るシーンが、良い意味で生々しい。電車で痴漢をして警察の厄介になる井村誠一(小池朝雄)、退屈な日々を送る小説家・花田光太郎(高橋昌也)と、伊木の三人がお座敷ストリップを見つめる三人の顔が真っ黒になるショットに、中平のアヴァンギャルドな感覚が楽しめる。料亭の女将(岸輝子)の無表情な奇怪さも、怪しげで楽しい。
後半、伊木が京子に「海を見に行こう」と横浜の港が望めるホテルニューグランドのグリルで食事をする。京子が感じる居心地の悪さ。彼女が口に食物を運ぶ仕草の世帯くささ。密室での逢瀬の官能との遊離を感じさせる象徴的なシーンである。食べることといえば、妻・江美子、息子と伊木の朝食で、伊木が胡瓜の漬物をふた口で食べることを詰る江美子が、目刺しを一口で、しかも立て続けに二匹食べる口のアップがある。これも官能とは正反対の所帯じみたショットである。もちろん中平康の狙いである。
印象的なのは、冒頭、横浜マリンタワーのエレベーターガール(葵真木子)に対して、伊木が彼女を欲情の対象として見るカット。お決まりのタワーの説明をしている彼女の言葉がシャットアウトされるだけで、日活映画でお馴染みのバイプレイヤー、葵真木子の整った顔立ちが、肉感的に感じる。
また文学座出身で、仲谷昇らと共に劇団雲の創設メンバー・谷口香が、井村が電車で痴漢行為をしてしまう「電車の女」を演じている。彼女の持つ不思議な色気が、井村の眠っていた感覚を呼び起こしたのだと、観客も納得する。そうした中平康の女性への眼差し、女優を捉える眼の一つ一つが、この映画を吉行淳之介の文学世界のヴィジュアル化としての成功をもたらしている。
ともあれ、大島渚の『愛のコリーダ』(76年)よりも12年前、中平康監督は、数々の映像的な制約がある時代に、アルチザンとして「性の不毛」「性の解放」をテーマに、耽美的な映像世界を生み出すことに成功したことでも『砂の上の植物群』はエポックメイキングな作品である。
中平康は、続いで、仲谷昇と稲野和子主演でエロティック路線第三作として『女の渦と渕と流れ』を手がける。